• 佐川明美さん

    佐川さん

    京都大学法学部卒業後。大和証券に女性総合職第1期として入社、在籍中にスタンフォード大学MBA取得。マイクロソフトで日本版Word 初代プロダクトマネージャーを務める。Windows95立ちあげのためにマイクロソフト本社勤務、その後、起業。数年後その会社を売却し、現在は華道の師範。どんな逆境下でもベストを尽くしてきた、佐川さんの人生。

     

    記事:藤井彰人 取材日:2013年7月

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    驚いた就職活動、女性冷遇の時代を経験

    高校卒業後、難関と言われている京都大学法学部へ入学した。特別な理由はなかったが、ただ単に勉強が他の人よりできただけ。京都大学では、普通の大学生と同じように勉強をして、同じように就職活動をした。

    私はキャリアウーマンとしてバリバリ働こうと思い、当然総合職を志望した。そこで待っていたのが『女性』というハンデ。就職活動をする前までは知らなかったけど、当時は、女性は一般職で働くのが普通という時代。私は約40社に応募したが、女性総合職志望というだけで面接さえしてくれない企業が多かった。人気が高かった都市銀行などはもちろん受け入れてくれるはずもなかった。男性の友人たちは都市銀行へ次々内定が決まっていく。正直女性というだけでここまで差別されるとは思わず、非常に驚いた。彼らと比べても能力も変わらないか、むしろ上と信じていたのに、とても悔しかった。

    でも、負けず嫌いな私は、総合職として働きたいという一心で、業界関係なく必死に就職活動に取り組んだ。その結果、女性総合職を採用していた大和証券に女性総合職第1期として内定を頂いた。

    大和証券に入社。男には絶対負けない。

    就職活動で大変な苦労をしたことから、男の人に対して絶対負けたくないという気持ちを持って、何でも必死で仕事をこなしてた。その当時は男性の10倍の努力をして初めて会社に認められると思っていたので。名刺集めも男性達には負けずに頑張り、実際私の方が多かった。とにかくがむしゃらに働いた。今思えばこの時の経験はとても大きく、どんなことにも耐えられる自信ができた。

    入社時に、会社が支援してくれる留学制度があることをたまたま知った。そして3年後、がむしゃらに働いたおかげで会社が留学を支援してくれることになり、こんなチャンスは逃すまいとの思いで必死に勉強して、アメリカのカリフォルニアにあるスタンフォード大学ビジネススクール(以下MBA)に入学することができた。

    スタンフォード大学MBA、忘れられない授業

    スタンフォード大学はシリコンバレーの近くに位置する。お昼休みには、そこからベンチャー企業の社長などが講演にくることがあった。その講演に来ていたのが、なんとアップルの創業者スティーブ・ジョブズ(当時はアップルを追い出されていたため、ネクストという会社にいた)や、マイクロソフト創業者ビル・ゲイツだった。当時は両方とも現在と比べてずっと小さい会社だったが、彼らの話を聞き、何か凄いことをやっているな、と日本では味わえないような刺激を受けた。余談だが、この講演の時に、スティーブ・ジョブズは当時まだMBAの学生だった奥さんと出会った。「自分にもチャンスがあったかも…」なんて。(笑)

    この2年間で感じたのは、アメリカのカリフォルニアという地が自分にとって、とても心地いいということだった。青い空がたまらなく良かった。卒業時にはどんな仕事でもいいから必ず5年以内に戻って来ようと決めた。

    再び大和証券に戻ったものの、待っていたのは・・・

    私としては、2年間必死に勉強をしたつもりだった。MBAの経験を活かし、企業買収などを担当できる部署に異動願いを出した。私としては当然のことだと思った。しかし、会社側は違った。当時、彼らにとって留学はお遊びのような認識で、結局欲しかったのは、留学した人間の『数』であり、その『人』ではなかったのだ。

    私の希望は叶うことはなく、留学前と同じ部署の他部門で仕事を続けることになった。しばらくはそこで頑張った。けど、頑張って働き続けて、心の中では「何か違うな。」とひっかかるものを常に感じていた。

    もちろん5年以内にアメリカへ戻る決心も忘れてはいなかった。当然のごとく、転職を考えた。ただ、それには1つだけ問題がある。大和証券との契約上、5年以内に辞めてしまうと授業料を返済しなくてはならなかったのだ。また、5年間いつ辞めても返済金額は変わらないというものだった。

    その頃私は29歳で、5年後は34歳。それではあまりにも遅すぎると感じた。いつやめても同じなら早いほうがいいに決まっている。そうして私は、転職を決心したのだった。自分の理想の地、アメリカ西海岸に戻るためにはそこに本社のある日本の支社が理想だった。会社はどうしようか。お金はどうしようか。当然授業料を支払える金なんてない。

    私は、もともと大和証券で電機業界のアナリストだったことや、スタンフォードでジョブズやビル・ゲイツの授業を受けたこともあり、コンピューター業界に興味をもっていた。職種はマーケティングで志望した。MBAの授業を通し、面白いと思ったからだ。

    会社には旅行と嘘をついて転職活動をし、幸運なことにマイクロソフトに就職することが決まった。しかも、授業料返済のためのお金はなんとマイクロソフトが一旦貸してくれることになった。当時、ウィンドウズすらなかった時代で、マイクロソフトは日本では無名だった。大和証券の上司からは「なんでそんなわけわからない無名な会社に行くんだ?」と言われた。

    しかし、私にとってはアメリカへ戻る大切な大切な第一歩だった。

    本当の幸せって何だろうか?

    マイクロソフトで今では有名な日本語版『Word』のプロダクトマネージャーを担当した後、マイクロソフトの本社のあるシアトルで勤務することになった。カリフォルニアではないが、ついにMBA以来の西海岸に戻ってきたのだ。

    大和証券時代から自分はずっと上昇志向で働いてきたが、マイクロソフトの本社でももちろんそうだった。しかし、そこでふと思った。

    「競争の世界に身を置いて、相手を蹴落としてでも上にいくことに果たして価値はあるのか?」

    「自分にとっての幸せとは一体何だろうか?」

    その後、マイクロソフトを退社し、本当に自分の力や助けが必要な人の為に働きたい!と思い、そういう人と一緒に仕事するチャンスを待つことにした。それが自分の幸せにつながると思ったからだ。人の幸せは自分の幸せ。相手に求められてそれに応えることこそ、自分の幸せだと気づいた。

    「私が仕事を探すのではなく、仕事が私を探すんだ。」

    ちょうどその時、マイクロソフトの元同僚が起こした会社の米国進出にあたり、米国支社の立ちあげを任された。これまでの自分の経験から、自分には「こんな会社創りたいなぁ」と思っていた会社の雰囲気があった。

    それは…会社内では仲間を蹴落とすのではなく、『みんなが信頼し合い、みんなが協力しながら成長し、みんなで会社を創っていく。』という方針で会社を経営すること。私はそれを実践した。そして、会社は成長し、最終的にはクアルコムという会社に売却して社長業を終えた。

    今やっていること、今いる環境が自分のベスト

    今まで自分がやってきたことは、『自分から取りにいった。』というよりも『与えられたもの。』なんじゃないかと思う。就職活動で悔しい思いをしたこと、大和証券で必死に働いたこと、留学したこと、マイクロソフトに行ったこと、会社を経営したこと、全て。それら全てが、その時々に、むこうから来たものだったんだと思う。そして、それらはその時の自分にとってベストな選択肢だったんじゃないかな。

    若い人の中には、受験などで失敗して後悔している人もいると思う。ただ、それは決して失敗ではなく、その人にとって一番良い選択で一番良い高校、大学だったということ。それは50歳を過ぎて、初めてそのことを感じるようになった。だから今ある自分の環境が最善だと思って、そこで必死にがむしゃらに頑張って欲しい。20年くらい生きただけでは好きなことなんかわからないのだから。

     

     

     

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