• 川添眞一郎さん

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    川添眞一郎さん

    三菱商事入社後、宇宙•航空機に関わる部署へ配属され、ロンドン駐在、三菱航空機に出向を経て、現在は北米三菱商事のシアトル支店長を務める。信念を持ち続け、日の丸ジェット(国産飛行機)を作るという夢を30年越しに実現した、川添眞一郎さんの人生。

    記事:田中雄一郎 インタビュー日:2014年1月

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    マスコミへの就職を志した大学時代

    とにかく親元から離れて自立して生活したい。そんな思いを胸に、東北大学の経済学部に進学したのは、1980年のことだった。その頃は、社会で起こっていることに興味を抱き、所属していたサークルの学園祭の企画で、大江健三郎さんなど著名な文化人の方を招いて講演会の企画等に携わっていた。社会で活躍する個性的な方々と接する中で、社会にはいろんな人がいるのだと気づき、そういった新しい出会いに巡り会えたことに、とても興奮した。そうした経緯があり、将来は新聞記者かテレビの報道関連の仕事に就くことを志すようになった。

    大学4年生になり、自分の将来を考える上で、3つの道があると考えていた。一つ目は、兼ねてからの希望であるマスコミへの就職。二つ目は、大学院進学。そして三つ目は、一般企業への就職。どちらかというと一般企業の就職にはあまり関心がなく、実際に面接を受けた会社は、後に入社することとなる三菱商事だけであった。それも、就職活動解禁日(当時は10月1日)に、とりあえず記念に受けておこうか、と思い立ったのが理由で、当時は相当変わった学生だと思われていたに違いない。三菱商事の面接でも「御社に行きたいです」という志望を一言も口に出さずに、自分の思ったこと、考えたことや学生時代にやってきたことだけをしっかりと話して内定を頂いたのだから、企業側は自分の変わった側面を評価してくれたのではないだろうか。

    内定は頂いたものの、もちろん、マスコミの道はまだまだ諦めていなかった。

    そんな時、将来の進路を相談していた方から、「マスコミ以外にも活躍する場があるし、三菱商事ならば世界中に窓が開かれていて何でもできる。たまたまでも内定貰ったのならば、そういう所でチャレンジしてみるのも君の生き方ではないか。」という言葉を頂き、「あぁ、なるほど。そういう考え方もあるな」と、悩むのをやめて、素直に就職する道を受け入れた。今になってその当時の選択を振り返れば、どっちの道に進んでもやりたいと思っていたことが実現できたのではないか、と思う。しかし、商社に入社して、海外を含めていろんな仕事に関わり、人的ネットワークも広がったことを考えると、全く後悔はしていない。

    三菱商事への入社

    1984年、三菱商事へ入社し、宇宙航空機部に配属された。この部署では、飛行機はもちろん、宇宙、打ち上げロケット、衛生、防衛など空に関わるあらゆるものを扱う。私は民間航空機に関わる仕事を担当するようになり、主に三菱重工業のボーイング向け部品輸出や、航空機関連機材の海外向け輸出に携わった。後々には新規分野の仕事として航空関連施設のターンキイプロジェクトも担当し、マレーシアに1年間長期出張で張り付いてプロジェクト管理も担当、そこに携わった人達を考えると、かなり貴重でとても刺激的な経験をさせてもらえた。ちなみに、宇宙航空機部への配属は私が特段望んでいたわけではない。配属面談の時には、この商品を扱いたい、この事業部に行きたい、という希望が特になかった。逆に、これしかやりたくない、と決めてしまうことで可能性を狭めてしまうよりも、結果的には良かったのかもしれない。おかげで、海外を含めて、普段ではなかなかお目にかかれないような人達とのつながりを持つことができた。

    ロンドン駐在

    1995年よりロンドンに6年間駐在をした。兼ねてより海外勤務の希望を出していたが、11年目で初めてチャンスを掴んだ。ロンドンは宇宙航空機における欧州の拠点で、ビジネスの対象はヨーロッパ全土に及ぶ。国によって、慣習や法律はもちろん、交渉、契約の仕方、ビジネスの仕来りが異なり、当初は慣れるまで大変苦労した。また、衝撃的だったのは、EU各国の通貨がユーロへ統一されたことだ。国の歴史、文化を象徴する通貨がなくなることは、頭では分かっていても、現実的には理解できないような世の中のダイナミズムだった。ビジネスでも1、2年先のことだけでなく、5年、10年といった大局を見据えていかないと、いつ足下を救われてもおかしくない。支店長となった今、10年後のビジネスのあり方を考える重要さを実感している。

    ロンドンから日本へ帰国したのが2001年。本部のエアラインビジネスを手がける部門へ移動となった。そして、2004年には、IR部へ移動となる。これまで全く馴染みがなく、知識が0の状態からのスタートで大変苦労したが、

    投資家や格付け機関、銀行など外部の人達にいかに自分達がやっていることを理解して貰えるか、知識を深め工夫しているうちに、客観的に物事を捉える事ができるようになった。他人の立場に寄り添いながら物事を見ると、これはいい、と思ったものが、冷静に分析すると、実は上手く行きそうにないことがわかったりする。この他者の目は、事業を管理する立場となり、より役に立っていると感じる。

    信念を叶える

    一年に一度、自分が将来やりたいことと、今までやってきたことの振り返りを行う機会がある。30年以上前の書類を紐解くと、日の丸ジェット(国産飛行機)を作るようなプロジェクトを手掛けるべきだ、と書いていた。その当時、国内には完成した民間航空機を作るビジネス環境がなく、航空機ビジネスに携わっていた身からすると、入社1年目、2年目の自分でも国産の飛行機を飛ばしたい、と思うのは必然だったのかもしれない。

    時が経ち30年後、その夢を叶える機会が訪れた。

    2006年にIR部門からエアラインビジネスユニットへ復帰すると、国産飛行機を作ろう、という機運が最高潮に達していた。これまでにも何回かそういった動きがあったが、今回は国を巻き込んで、本格的に参入する決意を固めていた。そして2008年、三菱商事から100億円を出資し、三菱重工などのパートナーとともに三菱航空機という国産日の丸ジェットの開発、販売会社を立ち上げた。出資を決めた当事者の1人として、私は三菱航空機に4年程出向することになり、営業企画やファイナンス部門のリーダーとして、指揮を取っていくことになった。初めて航空機を作るメーカーの立場となり、また、想定通りに行程が進まず、ストレスが溜まる事も多々あったが、本当にやりたいと思っていたことが実現できた喜びも実感した。国産飛行機『三菱リージョナルジェット』は、初フライトを2015年の中頃を予定しており、現場を離れたが、その時を今か今かと心待ちにしている。

    北米三菱商事への転勤

     三菱航空機で4年間務めた後、北米三菱商事シアトル支店に赴任した。

    シアトルは、本当に人が住みやすい場所だと感じる。そういった地域にグローバル企業が集まっている理由も分かる気がする。そこを港(拠点)にしながら、世界中へビジネスを展開していきたいという想いがあるのだろう。北米エリアには潜在的成長性のある分野がたくさんあるが、グローバル企業と力を合わせて、1つでも多くの仕事を一緒に作っていくのが私の最大のミッションだ。

    また、個人的には日本が今後どのような姿になってゆくのか、どのような形で他の国と関係を築き、貢献していけるのか、ということも関心事だ。日本が50年、100年と尊敬されるような国であり続けるためには、異なる価値観をきちんと受け入れて、1つのことを国際的に成し遂げていくことができるかどうかが問われている。日本という国が国際的にしっかりと理解され、お互いが同じベクトルに向かって何か成し遂げる手助けをするのが、これからの私のライフワークになるのではないだろうか。

    若い世代へアドバイス

    あまり自分に枠をはめないで、可能性を信じて、いろいろなことを恐れずにチャレンジしてほしい。時にはうまく行かないこともあるが、チャレンジしたことに意味があり、しっかりと見ていてくれる人は必ずいる。また、信念を持ち続けることも覚えておいてほしい。若いうちは信念を貫くことができないかもしれないが、私のように30年経った時に、突然自分のやりたいことが実現できるケースもある。その時に全力でやりたいことをやれば良いのではないか。どちらにしろ、まずは信念を持つために、頭で考えるだけでなく、まずは手足を動かしてみる。そうして、汗をかいて、苦労したことが信念に結びついていく。幕末の人で言えば、吉田松陰が死罪覚悟で海外へ赴いたが、信念を貫こうとしたら、少なくとも何らかのリスクを取らないと行けない。リスクに臆せずにどんどんチャレンジしていってほしい。

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    ワシントン州日米協会ボードメンバーである川添眞一郎さんに特別インタビューを行いました。

    日米協会への加盟

    2012年4月に日米協会へ加盟。シアトルへ赴任し、翌日ぐらいに日米協会の方とお会いして、一緒にやらないかと誘って頂いた。右も左も分からない状態だったが、自分をしっかりと受け入れてくれる場所があることに心強く感じ、また、基本言われたことは断らない性格なので、やりましょう、と答えた。結果的には、日米協会のイベントを通して、いろいろな人に出会えて良かった。

    川添さんにとって日米協会とは?

    現会長の代行として、様々なイベントに参加しているが、すっかりシアトルの生活の一部になっている。

    JSGに期待すること

    学生の方が、海外の大学で勉強し、生活していくのは大変なことだと思う。それに加えて、ボランティア活動に携わって頂けたら、大変心強いと思っている。若い世代のネットワーク、特に日米関係は大切だと思っていて、JSGが単に日本人留学生の中での情報交換の場ではなく、大学にいる様々な背景を持った方々と、いろんな議論や切磋琢磨できる母体に育っていけば、留学した方々の財産になるのではないか、と思っている。