• 末吉英則さん

    大好きな洋楽・洋画に憧れを抱き、大学の短期留学プログラムを利用してオレゴンへ渡米した大学4回生の夏。その経験が原点となり、プロ野球チームの通訳を経て、メジャーリーグの球団職員としてアメリカに住む夢を叶えた。現在は日本野球機構(NPB)国際担当マネジャーとして日米の野球界の架け橋として奔走する末吉英則さんのストーリー。

    記事:杉山隆昭  インタビュー:2016年11月

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    今の私の原点

    1986年の夏、当時通っていた近畿大学で、初となる海外留学プログラムが始まった。昔から洋楽や洋画が好きで、必然的にアメリカへの憧れを抱いていたため、このチャンスを逃すまいと大学4回生(大学4年生)のタイミングで迷わず応募した。そして、数多くの希望者がいる中、運よく第一期生として選ばれ、オレゴン州にあるオレゴン大学の3週間の語学プログラムに参加することになった。

    留学中は、アメリカ人のホストファミリーの家に滞在したが、とても友好的な家族でどんな時でも相談に乗ってくれた。今でも年に一度は必ず会っているほど親交が深く、第二の家族として30年近くの付き合いだ。また、語学学校の先生とも、いまだに連絡を取り合っている。そんな人々との素敵な出会い、そして経験するもの全てが新鮮だった3週間はあっという間に過ぎていった。充実した3週間を過ごし、もっと英語を磨きたい、アメリカに長くいたい、という想いが、自然に私の中で芽生えていた。

    アメリカに残る道を探して 、プロ野球球団の職員へ

    帰国後、オレゴン大学に編入することを決意した。周りの友人は就職活動の真っ只中であったが、その思いに迷いはなく、日本での就職活動は一切行わなかった。そして、1987年に近畿大学を卒業後、すぐに渡米しオレゴン大学のESL(大学付属の語学学校)に入学した。

    ここでも夏の短期留学の際に滞在したホストファミリーの家に、数ヶ月間お世話になった。日々の生活を通して、英語力は格段に上がり、いつの間にかTOEFLのスコアがオレゴン大学に正規留学できるレベルにまで達する程だった。

    両親とは、ESLで1年間英語を勉強した後に帰国するという約束をしていたが、アメリカでの生活を楽しみ、”もっとアメリカにいたい”という気持ちがあったため、両親の理解の元、オレゴン大学に正規留学をして勉強を続けることにした。正式に入学後は、好きな歴史学を学び、課外活動では野球同好会に所属し、たくさんの仲間とともに、パーティーや旅行などアメリカ生活を存分に満喫していた。

    1990年の春、当時26歳。卒業を間近に控え、ようやく就職について考え始めた。アメリカに住み続けたいという思いで、どうにかアメリカに残る道がないか模索していたが、仕事を見つけることは困難を極めた。
    そんな中、ふとしたタイミングでテレビ特番を見ていた時、元阪神タイガースのフィルダー選手が日米の文化の違いから、適応する大変さを語っていた。その映像を見た瞬間、これだ!と閃いた。
    英語が使える私なら彼らの助けができるかもしれない。ましてや大好きな野球に関わる仕事ができる。いても立っていられず、すぐに当時の日本のプロ野球球団である近鉄バッファローズとオリックスブルーウェーブ(以下、オリックス)に英語と日本語の手紙と履歴書を送った。

    ダメ元で送ったつもりであったが、数日後にオリックスの当時の球団代表から直接電話をいただき、幸運にも面接を受ける機会を得た。そして、面接に合格し、1990年の10月から当時ピッチングコーチであったジム・コルボーン氏の通訳として、オリックス野球クラブに入社した。
    オリックスへ入社するということは、同時にアメリカを離れることを意味する。しかし、アメリカに住むという夢を諦めたわけではなく、いつかメジャーリーグに関わる仕事ができるかもしれない。そうなれば、アメリカに住んで働くことができるはずだ、とむしろ前向きに捉えていた。

    7年越しの夢を叶える

    1997年、オリックスとシアトルマリナーズ(以下、マリナーズ)の業務提携を結んだ。業務提携が結ばれるまで約7年の歳月を費やしたが、この仕事に関わる中で毎年のようにアメリカへ足を運んで外国人選手調査に関わったことや、かつて通訳を務めたコルボーン氏からの誘いを受け、3年の約束でオリックスよりマリナーズに正式に出向することとなった。

    さらに、マリナーズに赴任してから2年が過ぎた段階で、オリックスを退社し正式にマリナーズの職員となった。その後、10年以上に渡ってマリナーズで働き続け、その間、イチロー選手の通訳や、日本からメジャーへ来る選手のスカウティング、マイナーリーグ(育成部)管理部長など様々な仕事を経験し、まさにアメリカで暮らすという夢を叶えた。

    人生のどん底へ

    2013年11月末には、マリナーズ時代の上司に誘われロサンゼルスドジャースへ転職。これまでの仕事に加え、ドミニカにある野球アカデミーに月に1度赴き、アカデミーの経営・運営と選手の育成にも力を入れた。しかし、契約更新の時期を迎えた2015年8月直属の上司が解雇されたのをきっかけに、来季の契約を結ばないと宣告された。いわゆる戦力外通告であった。

    これまでの人生、すべてがタイミングよく進んできたように思えたが、今回ばかりは少し違った。契約が切れ、いよいよ無職となり生活が苦しくなった。失業保険で生活をやり繰りしながら、次の仕事を探した。知っている限りの日米にいる知り合い全てに連絡をとり、仕事がないか尋ねた。文字通り、人生で一番つらい時期だったかもしれない。

    なかなか新しい職が見つからず、やきもきしていた自分に手を差し伸べてくれたのは、現北海道日本ハムファイターズのゼネラルマネージャー (GM)を務める吉村浩氏だった。吉村氏とは、同学年でお互いを尊敬しあう仲であり、付き合いは20年近くに上る。また、吉村氏以外にも長年、プロ野球界に携わってきた身として、ファイターズには多くの知人がいた。そんな縁もあり、2016年2月ファイターズのアリゾナキャンプに帯同し、キャンプ裏方の仕事をいただいた。20数年ぶりに仕事の原点に帰りとても清々しく、グランドに立って仕事ができる楽しさ・嬉しさを改めて毎日感じることができた。そして現在は、日本プロ野球機構の職員として、メジャーリーグと日本プロ野球、両球界の情報交換や国際試合に帯同するなど、多岐に渡る仕事を行っている。

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    人生の教訓、そして今の夢

    今まで生きてきた中で大切にしてきたことがある。それは、人だ。どんな時も最終的に人が一番大切である。自分の人生を振り返っても、どれだけの人に助けられたか数えても数え切れない。そして、人生のターニングポイントと呼ばれる局面では、必ず自分以外の誰かが手を差し伸べてくれた。人生は、自分一人では生きられない。

    人間関係を確固たるものにするための秘策が一つだけある。それは、一緒に飯を食べに行くことだ。“同じ釜の飯を食べる”という言葉を誰もが一度は聞いたことがあるだろう。まさにその通りである。一緒にご飯を食べることでより関係性を深めることができるのだ。こうして、多くのネットワークを今に至るまでに築きあげてきたのである。

    もう一つ心に決めていることがある。それは、チャンスを逃さないことだ。生きていれば、必ずチャンスが回ってくる。チャンスだと思ったら、必ず取りに行く。思い返せば、今の自分があるのは、巡ってきたチャンスを確実にものにしてきたからだと思う。ただ、そのチャンスがいつ、どんなときに回ってくるかは分からない。そのため、常日頃から色々なところにアンテナを張り巡らすことが必要なのだ。例えば、新聞を読むこと、ニュースを見ること、本を読むこともその一環である。そうやって、チャンスが来るのを待つのである。

    多くの人に支えられた私が今抱く夢は、ベースボールオペレーションのNo.2。いわゆる、球団のアシスタントGMになることだ。プロ野球界に身を置き始めた当初からの夢でもあるが、引退までにこれを実現させることが今の一番の夢である。もちろん、今はそのチャンスが巡ってくるのを虎視眈々と待っている段階だ。いつか次世代の人にこの思いを引き継ぎつつ、納得した形で引退を迎えることができたら….そう願っている。