• 杉本幸雄さん

    杉本さん

    世界で初めてラジオの小型化に成功したグループの技術者。航空機のエンターテイメントシステムを主に扱うMAS(松下アビオニクス)で社長を勤めた後、シアトルにて航空機のモニターを製造するAircraft Cabin Systemを設立し、多数の航空会社などへモニターを提供する。笑顔をモットーに、常に自分の目標を達成し続けてきた杉本さんの人生。

    松下アビオニクス(現パナソニックアビオニクス)元社長、Aircraft Cabin System 社長

    記事:田中瑞木 インタビュー:2013年8月

     誰も作れないようなラジオを作る

    私が少年だった頃、とにかくラジオが大好きで仕方なく、よく自分でラジオを買ってはそれを解体してまた作って、ということを繰り返したものだ。工業高校では電気科に所属し、そこでますますラジオの魅力にはまっていった。そして、学校卒業後は、松下電器(現パナソニック)に入社出来ラジオ事業部に配属されたことが、凄くうれしかったのを覚えている。

    当時はテレビが出てきた時代だったけども、ラジオもまだまだ行ける、って思っていた。この部署は上下関係や仕事にはとても厳しかった。けれども、その分上の人が下の面倒を最後まで見るという風潮のおかげで、グループの仲間意識が強く、今でも日本に帰ると集まってお酒を飲む仲だ。

    1970年頃から懸命に考えた商品が、半年後には海外から安いコピー商品が出てくるようになった。それがきっかけで、「誰も真似出来ないようなラジオを作ってやろう!」と意気込んで、事業部の技術グループで、みんなで夜な夜な考えを巡らせていたものだ。5年かけて出来たのが、ポケットサイズの『ペッパーラジオ』。当時ラジオは手作業で作られていたのを、機械を使って従来の1/4まで小さくすることに成功した。この技術は今でも携帯などに使われており、世界的な貢献ができたことは僕らの誇りだ。

    さらに、この製品は不良品として会社に戻って来た数がなんとゼロだった。この技術で信頼性が2桁もアップした。最近の風潮として、商品開発といってもデザインや簡単な変更のみで開発だと思われていることが多いけども、本来なら元々の作り方や部品から変えていくのが本当の商品開発だと思う。

    味方がいない?航空業界への参入

    小型化した機械を違う産業でも使えないか検討していた時に、「次は飛行機業界だ!」と思いついた。飛行機の部品は、軽い、小型、信頼性の3つ必須なため、この部品は航空業界にぴったりなはずだ。そう考え、航空業界に対して売り込みを開始し、ボーイング社からデジタル・オーディオの提案要求を受けるところまでこぎ着けた。ところが、社内から「飛行機ほど責任が重たい産業に手を出してどうするんだ!」「会社が潰れたらどうする!」という反対の声があがる。

    「もう続けることはできないのではないか。」

    頭にそうよぎった。しかし、当時社長を退任後、相談役として会社の経営に携わっておられた松下幸之助さん(松下電気創業者)が一言「いい仕事とってきたなぁ。」っておっしゃってくれたおかげで、それからは社内でも認知してもらえるようになったのだ。

    まさに松下さんのお陰だ。松下さんは本当に経営者としてすばらしい人だ。彼は功績や、仕事内容をほめる時には必ず現場の社員に対して話す人で、反対に何か怒る時にはその上司に対して怒る。小さい時から仕事で苦労されていた方だから、人の扱いをよく知っている方だった。

    ボーイング社との仕事は、最初は座席のエンターテイメントシステム製作から始まって、モニター開発へと段階を踏んでいった。今では1人に1つのモニターが付いているのが普通だが、昔は天井にいくつかモニターが着いていて、それをみんなで見るのが当時のスタイル。この松下のシステムの信頼性が高かったおかげで、1980年後半にはオーデオ関連では、ほぼ100%のシェアを確保することができた。

    初めての会社設立

    1900年頃からボーイング社に近い場所に営業部門が設立された。しかし、当時大阪でのエンジニアが不足していたので、同業他社の買収を計画したが、失敗に終わったことがきっかけで、この部門を完全子会社化し新会社としてカリフォルニア州に設立することになった。そして、私は社長に就任した。しかし、社内事情で私がアメリカに移ることになり、ボーイング社の近くにあった営業部門とロジスチックを担当するMAS社とカリフォルニアの技術会社は、合併する事になった。この過程で会社設立に関することをたくさん学んだ。もともと部門として存在していた会社だったが、書類の変更手続きがとにかく大変だったが。

    手続きが終わって一息つく間もなく、今度は社長として何をすればいいのか全くわからないことに気づく。そうなると、とにかく中小企業の社長が集まるCEOフォーラムに参加させて貰い、たくさんの起業家の話を聞いて勉強した。経験者の話を聞くことは一番の勉強方法だ。話を聞いているうちに、「もし自分が会社を作ったら。」と想像出来るようになったことは、1つの大きな成果だ。

    結局60歳の定年まで社長を勤めた。通常の海外駐在員であれば、定年の少し前に日本に帰っていくが、私はぎりぎりまでここで働きたかったので、残って最後まで仕事をすることにした。

    まだまだ仕事は辞められない!セカンドライフの挑戦

    定年退職後も、私はこの業界の仕事が好きで仕方がなかったし、ここで辞めたくない。そこで、自分でモニター専門の会社を設立した。アメリカはやはり自分でビジネスを始めるにはやりやすい国だし、成功のチャンスが無限にある国。自分でやりたいと思うことがあるなら、やればいいと思った。

    けれども、事業を始めるということは本当に大変なことだし、覚悟が必要。私は退職金を半分使って事業を始めたが、最初は苦労の連続だった。途中で資本金がなくなって銀行からの融資は打ち切りされてしまったため、家を担保にお金を借りて事業を何とか続けた。

    ところが3年すぎた頃、ボーイング社の軍用機部門から大型モニターの仕事が来て、そこから少しずつ他社からのも仕事をもらえるようになっていった。コツコツとした経営方針がよかったのだろうか。中東の王様が所有する専用機のモニターや日本の政府専用機の仕事など重大な仕事が来るようになり、今ではアメリカの航空会社からの仕事も少しずつ増えてきた。我が社のモニターの特徴は、光に反射しないという点で、窓を開けながらでもお客さんが映画を楽しむことが出来る。『よそよりも少し先をいく』。それこそ私が常に心がけて事業を行ってきたことだ。

    運を味方に

    私はどんなに苦しい時でも、ここを超えれば「この先はいいことがある」と、ずっと思い続けてきた。

    「苦労をすれば運が必ず回ってくる。」

    実際に私はたくさんの幸運に恵まれた。

    「夢、ロマンを信じれば必ずチャンスや運はやってくる。」

    辛くなってもあまり自分を追いつめてはいけない。焦らないことが成功の秘訣。どんどん前向きにたくさんのことにチャレンジして、自分の枠を自分で決めてしまって今出来る範囲のことだけを考えるのではなく、出来ないと思ったらどうしたら出来るのか?を考えて欲しいんだ。

    私の来た道を振り返ってみると、人生の分かれ道っていうのは、次から次の現れるが、それが自分でわかる時もあるし、わからない時もある。選択肢は決して1つじゃないし、心配とか気にしすぎることはない。自分の信じる道を選択すればよい。

    最後に自分がたどり着いた場所に満足できればいいじゃない。とにかく楽しいと思えるかどうかが大切なこと。

    最後に一言いうと、今の男性は優しすぎる!

    頑固っていうとあまり良くないように聞こえるかもしれないけど、頑固は自分の言いたいことをきちんと言うということ。女性も『優しい男が好き』っていうから、男が優しくなりすぎちゃうじゃないかな。(笑)少しは頑固にさせてやるのも、女の力量かな。(笑)