• 橋本幸司さん

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    学歴、プライド、世間体……これらに邪魔され、自分の本当の気持ちを素直に表現出来る人は少ない。とある研修がきっかけで、「プログラミングが好きだ」という自分の本当の気持ちを認めることができ、アメリカでソフトウェアエンジニアとして働く夢を叶えた。一度っきりの人生、挑戦する素晴らしさを説く橋本さんのストーリー。

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    記事:田中雄一郎 インタビュー日:2014年4月

    コンピューターとの出会いから夢を抱く

     小学生の時に、おじさんに恐竜展に連れて行ってもらった。当時はまだコンピューターが一般家庭に普及していない時代。そんな時代の子どもが、コンピューターによって作られた、ちょっとチンケで、ドット絵の恐竜がプリントアウトされただけの絵になぜかハマり、コンピューターの魅力にすっかり取り込まれてしまった。周りにコンピューターが好き、と公言するのは恥ずかしかったので、サッカー部では好青年を演じつつ、家でコソコソとパソコンにかじりついていた。同時期、宇宙飛行士がロケットに乗って宇宙に飛び立つ映像をテレビで見て、漠然と宇宙に対して憧れを抱くようになる。これらの出来事が幼少期に重なり、漠然とコンピューターを使う仕事で宇宙に携わりたい、という夢を抱くようになった。

    1992 年、大阪大学基礎工学部情報工学科に入学し、3年目の終了と同時に飛び級で修士課程に進学した。3年後には博士課程に進学し、高信頼のコンピューターシステムの研究を行う研究室に所属した。高信頼のコンピューターとは、ロケットを例えると、故障があってはならない製品でありどこかに故障が起こると大変なことになってしまう物だ。しかし、万が一故障が起こったとしても大丈夫なように、安全システムも同時に設計されていて、まさにそういった高信頼のコンピューターシステムの研究を行っていた。結局、コンピューターを用いて宇宙に携わる、という夢は、まず修士課程に入る前に宇宙開発事業団などに応募し就職活動をして、あえなく書類選考で不合格。さらに、博士課程を卒業する時には、世界的な不況が訪れていた影響で宇宙開発に携わっている企業は人員を一切募集していなかったこともあり、その夢を諦めざるを得なくなったが、今が幸せであり逆にそれで良かったのかもしれない。

    修士課程では、意識の高い人に囲まれながら英語の論文を多数読み、英語で論文を書き、そして英語で発表するという厳しい環境で揉まれ、特に将来のことを深く考えるでもなく、目の前の 研究に打ち込んでいた。そして、博士課程になると、いよいよ論文ありきの世界で、いかに良い論文を書いて、いかに凄い研究者になるか、という雰囲気になる。自分は研究者なのだから論文を書くのが仕事だ、と言い聞かせて取り組んでいたが、実はデータを収集する過程で、プログラムを構築する時間が何よりの楽しみだった。心ではプログラムを書いているのが楽しい、という気持ちに気づいていながら、博士課程で研究している、という見栄やプライドが邪魔をして、その気持ちに正直になれない自分がいた。

    プログラミングが好きだ、と自分の気持ちに正直になる

    2000年に博士課程を修了、日立製作所に入社した。主な仕事は自動車のエンジンコントロールに関するソフトウェア研究開発。入社して1年目の頃、自分は博士課程を卒業しているのだから研究者としてやっていくのだ、と変な意地とプライドを持って仕事をしていた。ソフトウェアの試作品を、手を動かして作っている時に、やっぱりプログラミングは楽しいな、と思う時があったが、こういう仕事は若い人がやるべき仕事で、偉い人はデータを取って論文を書くのがあるべき姿だと思い込んでいた。

    日立製作所に入社して1年後、泊まりがけで技術研修に参加した。社外から様々な講師を招き、若手に勉強の機会を与えてくれる制度だ。その時に、 現•カンザス州立大学教授の水野先生の研修を受け、その研修が私の人生をガラッと変えることとなる。水野先生は、アメリカでソフトウェアの専門家がどのように仕事を行っているか、説明してくれたのだが、日本でプログラミングを10年やっています、と言うと出世できない人と見なされてしまう。しかし、アメリカではそういう人がとても尊敬される、と述べた。

    プログラミングが好きだ、という本当の気持ちに気づいていたが、私の仕事は論文を書くことだ、と思い正直になれない自分。しかし水野先生は、プログラミングが好きだ、と言っていいのだ、と気づかせてくれた。プログラミングを書くことが如何に凄いことであるか、また、如何に高度な知的作業であるか、具体例を用いて証明してくれる頃には、私は完全に目覚めていた。

    日本で出世するためには、マネージャーにならなくてはいけない。仕事は人やお金の管理が中心になり、プログラムを書く時間も機会もなくなる。ずっとプログラム設計に携わっていたい、という人は出世を諦めなくてはいけない。だから私が思うに、給料が上がらなくても、プログラムを書くのが好きで溜まらない、だからやり続けたい、という人が日本の物づくりを支えている。一方、アメリカではエンジニアにはエンジニアのキャリアパスが、マネージャーにはマネージャーのキャリアパスが用意されている。話を聞いた当初はにわかに信じられなかったが、アマゾンに入社してそれが本当だとわかった。プログラムを書く、という行為は非常に高度な作業で、格好良く言うとアートである。持論では、優秀なエンジニアは出来ない人に比べて100倍以上作業効率が良く、それだけ給料をもらうべきだと認められている。日本のエンジニアの現状に危機感を抱き、海外に出て水野先生が言っていた事実をこの目で確かめたい、という思いが強く芽生えた。

    海外でソフトウェアエンジニアとして働いてみたい

    海外でソフトウェアエンジニアとして働いてみたい、という夢に向かって歩き出した。一旦、自分の将来に対する考えが明瞭になると、出世のことを一切考えなくて済み、自分にとって無駄だと思うことはやらなくて良くなった。 毎日17時に退社しては、必死に英語とコンピューターの勉強。面白いことに、次第に勉強の成果が本業の仕事にも結果として表れ始め、好循環が生まれた。

    学生で米国に渡り、OPT(Optional Practical Training:学位を取得した者に米国で1年間の就労機会を与える制度)を取得して労働ビザに切り替えるのが一般的である、とアドバイスを貰った。石橋を叩いて行くタイプなので、渡米までに結局8年掛かったが、その間に外で通用する実用的なスキルを身につけ、また、多くの技術研修に参加し、海外の情報を集めた。研修中に、バージニアにあるジョージメイソン大学のコンピューターサイエンス学部長•ハッサン•ゴマー先生という方の講義を受ける機会があった。講義中に頻繁に質問していたお陰で目を掛けてくれ、何かとサポートして頂いていたのだが、いざアメリカに行く際に奨学金の相談をした所、リサーチアシスタントとして雇って頂き、学費まで全額免除というオファーを出してくれた。

    当時34歳、仕事がそれなりに上手く行き始め、気持ちも高ぶってきたこともあり、大学院への進学を決意した。それが、2008年のことだった。あくまで大学院は米国で就職するためのステップという位置づけだったが、土日も集まって夜遅くまでグループプロジェクトに打ち込んだのは、良い経験だった。一方、大学院時代の2年間は、生活面で苦労した。家族はずっと離れてはいけない、という母のアドバイスもあり家族全員で渡米をしたが、リサーチアシスタントの給料は全て家賃で消える中、貯金を崩しながら子ども2人と妻を養っていくことになった。制度が全く違う異国の地に暮らして、ただでさえ不安な上に、保険料などが高くて低収入者向けの健康診断サービスを受けたり、子どもが欲しい物を買ってあげることもできなかったり、精神的にもとてもキツかった。仕事がある、ということは本当に有り難いことなのだと気づくと同時に、この2年間で相当なハングリー精神を身につけることができたと思う。家族を養っていくという責任の重さを受け止め、時間さえあれば勉強するといった具合に、とにかくなりふり構わず必死で勉強した。

    アマゾンから連絡が来た!

    卒業の数カ月前から、就職活動を始めた。アメリカでソフトウェア開発をするために渡米したのであり、業界に拘らずありとあらゆる会社に片っ端から応募した。私には家族の生活が掛かっており、例え中々返事が来なくても、とにかく毎日必死になってウェブサイト上で企業に応募し続けた。いくつかの中小企業からは電話面接の機会をもらった。しかし、英語力がネックとなって採用されることはなかった。そんな時、アマゾンから連絡をもらった。不景気の中でもアマゾンは拡大を続けており、採用活動に力を入れていた時で、全米中にリクルーティング網を敷いていた。鬼門となっていた電話面接では、自分自身のことを聞かれるというよりは、主にコンピューターに関する質問を聞かれ続け、これまで培ってきた経験や知識を活かしてしっかりと答えることができた。そして、3月中旬、シアトルで最終面接を受けた。

    週明けの月曜日、お風呂に入る直前。パンツ姿でウロウロしていた時、一本の電話が掛かってきた。電話は取れなかったものの、「メールをチェックして、直ぐに折り返し連絡をください」という留守電を確認し、直ぐにメールを確認すると、アマゾンからフルタイムのオファーが届いていた。

    受かったぞ!と叫び、涙を流す妻と一緒に喜んだ。

    3月22日、ちょうど2人の結婚記念日だった。

    人生は一度っきり

    アマゾンに入社を果たし、アメリカの会社でソフトウェア開発を行う、という一つの夢に辿り着いた。現在は、ソフトウェア開発をリードする立場になり、これまで抱いてきた大きな夢、目標はある程度達成できたのではないか、と思う。そろそろ次の目標に向かう時だが、アマゾンで別のチームに移るのか、転職するのか、それはまだ分からない。でも、30代の頃、オレはやってやるぞ、という思いで散々家族に迷惑を掛けて辛い思いをさせてしまったから、そろそろ安心させてあげたい。今まで全速力で人生を駆け抜けてきたから、もう少し家族と一緒にゆっくりと人生を楽しみたい。

    仮に今、転職活動をするとして、明らかに最初の就職活動と違うのは、選ばれる立場から選べる立場になったことだ。リクルーターからのメールは山のように来るし、日本語と英語で仕事を経験してきたことで、日本とアメリカのどちらでも働ける選択肢がある。気持ち的にも楽になったのは言うまでもない。自分で選べる立場に立つことは重要で、例えば、年功序列の会社にずっと所属していたとすると、物づくりの現場からは離れてしまうし、ある日突然外に放り出された時に全く勝負できなくなってしまう。これからは、地球の裏側の人達と勝負しなくてはいけない時代だ。常に自分を磨ける環境、そして外で勝負できるように自分を磨いて行かなくてはいけない。

    最後に、人生は一度っきりしかないことを皆さんに意識してもらいたい。やりたいけど…と、もやもやしていると一生後悔するので、迷っているならすぐに挑戦したほうがいい。今、自分がある程度結果が付いてきているから言えるのかもしれないけど、それでも若い人達には一回きりの人生の中で、一生懸命勉強し、思いっきり挑戦することを忘れないで欲しい。