• 立石鈴太郎さん

    立石さん

    Odaiko taken by Yoshiki Nakamura / Seattle Digital Photography

    小学一年生の時に太鼓に出会い、22歳で鬼太鼓座の太鼓奏者としてのキャリアを始動。10年間、世界26カ国での公演を経て、アメリカ、フロリダ州のディズニーワールドで7年間、ほぼ毎日太鼓を披露。そして2009年シアトルで独立。現在は、演奏活動とともに、『太鼓の学校』を開き、太鼓を通してメッセージを発信し続ける、立石鈴太郎さんの人生。

    The School of TAIKO / 太鼓の学校 www.japantaiko.com

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    人に導かれる人生

    「良き師匠、友人との出会い」が時に人の運命を大きく変えることがある。

    私の人生も、一生の恩師となる田耕(でんたがやす)さん、鬼太鼓座(おんでこざ)で出会った仲間、そしてアメリカを走る中で応援してくれた人がいたからこそ、今の自分がある。

    私が生まれ育った三重県四日市市では、地元のお祭りで太鼓を叩く風習があった。まだ幼かった私は、太鼓が奏でる音、リズムにとても魅せられ、本来であれば小学校3年生からしか叩くことが許されなかった太鼓を、お願いして小学校1年生から太鼓を叩かせてもらった。兄は太鼓があまり好きではなかったが、私は太鼓の魅力に取り込まれ、中学の時には選抜チームに入れてもらえるほど、腕前も上達していった。

    だが、太鼓との縁はふとした瞬間に切れてしまう。

    高校生の時にブラスバンド部に入部しドラムに出会うやいなや、すぐさまドラムの魅力に惹かれていった。そして、少しでも長くドラムを続けるため大学へ行き、大学院への進学を考えていた頃、運命を大きく変えることとなる出来事が訪れる。

    ステージアシスタントのアルバイトをしていた時のことだ。黒人のパーカッショニストを目の当たりにして、手の厚さ、指の太さはもちろん、キレのあるシャープな音色、リズム感の違いに驚き、ドラマーとしての自分の限界を感じた。流れている血がまったく違うと考えるしかできなかった。

    「ドラムで活躍するためには、『自分にしかできない』何かを見つけなければならない。」

    その「何か」が自分の血として流れている「日本の文化」の中にあると考え、それを見つけようと、神楽や田楽など各地の伝統的な祭りに積極的に足を運んだ。

    ある日、ふと目にしたNHKの番組で和太鼓をはじめとする、琴や尺八などの日本の伝統楽器を演奏する集団「鬼太鼓座(おんでこざ)」に出会った。鬼太鼓座での迫力ある太鼓の演奏を目の当たりにし、これしかない!と直感的に感じる何かがあったのだろう。大学を辞めると母親に告げ、猛反対されたにも関わらず、それを振り切ってまさにツアー真っ最中の鬼太鼓座に単身飛び込んでいった。

    この即断即決の行動が自分の人生を大きく変える出会いを引き寄せた。自分の人生のきっかけを作ってきたのは、常に積極的な行動力であり、それが運命を切り開く鍵であった。

    22歳で「鬼太鼓座」に入座、鬼太鼓座のリーダーだった田耕(でんたがやす)と出会う。当初は、鬼太鼓座で学んだ技術をドラムに生かすことができないか、と考えて飛び込んだが、田さんの世界観や哲学を学ぶうちに、

    「田さんについていこう」「ここ鬼太鼓座でもっと勉強しよう」と思うようになっていた。

    太鼓で生きていこうと心に決めた瞬間だった。

    人に寄り添う

    1990年~1993年までの3年間、鬼太鼓座の仲間とともにアメリカを一周走った。

    当時22歳だった私は、田さんからこの話を初めて聞いた時、壮大でまだ誰も見ぬ世界観に胸が踊らされた。なぜ走るかなんて誰も分からない。しかし、彼のやろうとしている夢を、一緒になって追いかけたかった。

    ニューヨークをスタート、毎日、皆で20マイルから30マイルを走る。楽しいこともあったが、道のりはそう甘くなかった。三年間、自分を走ることへ突き動かしたものは一つだった。

    「まだ誰もやったことのない田さんの夢を、一緒に成し遂げたい。そして少しでも彼の哲学を肌で感じたい。」

    少しずつ田さんの哲学を理解できるようになった気がした。

    『鬼太鼓座』は、私にとって「人生の大学」であった。

    彼の言葉、彼の行動を聴いたり、観たりして、それをただ聴いたり観たりするだけでなく、「どうしてそんなことを言うのか、どうしてそんなことをするのか」を洞察してきたからこそ、彼は良き師匠として、亡くなった今でも私を導いてくれているのかもしれない。長い時間にわたって苦楽をともにしてきた鬼太鼓座の仲間達も、時には対立することがあったが、お互いを良く知れば知るほど、次第に良き友人として分かり合えるものだ。今でもこのときの仲間は、太鼓奏者として世界中で活躍していている。

    1998年、アメリカに続き、太鼓を演奏しながら中国全土を走るプロジェクトが始まったが、私は途中で走るのを辞めてしまった。

    これから一生、鬼太鼓座を続けていくためには、もっと田さんのことを知らなくてはいけない。彼の原点でもある沖縄を知らずに、座を継いでいくことはできない。そして鬼太鼓座を離れ、沖縄で「田さんを感じ」「日本を思った」。

    そんな時、田さんは亡くなってしまった。

    田さんの夢、そして夢の続き

    田さんの夢の一つである、アメリカで太鼓のグループを作りたいという想いが、田さんが亡くなるとますます強くなった。

    オーランドのディズニーワールドで7年間、太鼓演奏者としてがむしゃらに働いたのち、かねてからの夢を実現すべく、2009年にシアトルで独立を決意した。

    「どうやってネットワークを広げ、太鼓、そして自分のことを知ってもらおうか?」

    パフォーマンスを通して自分をアピールすることはもちろんだが、それとともに一般の人向けの教室を開設したいという考えがあった。8月末に引っ越してきて、毎年9月にベルビューカレッジで開かれる秋祭りで急遽ブースを出させていただき、多くの人に宣伝した。一ヶ月後には、太鼓の学校を開き、気付けば30人の生徒の前で教えている自分がいた。今では90名ほどの生徒を抱え、4年以上続けている生徒が半数もいる。

    taiko

    Gather Aki Matsuri  Mineo Iwata

    「太鼓の学校」は軌道に乗ってきた。

    昨年、日本一の太鼓製造元である浅野太鼓店から太鼓一式を購入し、新しいプロフェッショナルな太鼓のグループを創る夢を実現するために奔走している。そして、自分にはまだ夢の続きがある。太鼓を含め、日本のあらゆる文化を世界各国の人々に紹介する文化センターを、イーストサイドに作ることだ。世界中を回る太鼓グループを作り、世界にメッセージを発信し、世界中の人をここに呼び寄せる、まさに拠点となる場所を作りたい。自分たちの文化を伝えること、相手の文化を知ることでしか相互理解は難しい。日米間で政治や外交といった困難な問題が生じていても、一人一人が少しでもお互いを理解し合うことで、日米の関係をより友好的で強固なものにしていくことが可能だと考える。

    私が大学のときに田さんと出会ったように、「自分が何をしたいのか」「自分にしかできないことは何か」を考え続けていれば、そんなロールモデルを見つけ出し、その人をひたすら追いかけることで道が開けることもある。「その人と一緒にいたい」と思える、良き師匠や友人を見つけて欲しい。そのためには行動あるのみ。

    彼らの生き方そのものが、あなたの人生を導いてくれる。

    そしてあなたの生き方が、次の世代へと受け継がれていくのだ。