• 竜 盛博さん

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    外資系メーカーで携帯電話用測定器の研究開発職に就き、社会人2年目の終わりには、アメリカへ駐在の機会を得るなど順風満帆の日々を送る。後年、不景気の煽りでレイオフや転職を繰り返す苦難を味合うも、一本の電話が切っ掛けでアマゾン、そしてマイクロソフトに移り、公私ともに充実した日々を送る竜盛博さんのストーリー。

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    記事:田中 雄一郎 インタビュー:2014年3月

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    半径3キロ以内からのスタート

    幼稚園から大学院まで、私が受けた教育は全て半径3キロの円内で完結している 。留学経験もなく、言わば外には全くといっていい程出たことのなかった私が、アメリカで就職を果たすことになる。

    仙台一高から東北大学工学部、同大学院へそのまま進学し、『多値論理』という分野で、コンピューターの高速化に関する研究に打ち込んだ。研究内容は面白かったが、そのまま実用化するには数十年かかるような内容で、会社で同じ研究を続けることは現実的ではない。コンピューター以外にも電気系統について学んでいたので、両方の知識が使える計測器メーカー、そして、その分野で有名だった企業、ヒューレット•パッカードに入社することにした。周りはソニーを始めとする、国内メーカーを志望する学生が多い中、英語が比較的得意だったことで外資系メーカーを志望していた私は、とても珍しい存在だっただろう。

    ヒューレット•パッカードへ入社、その後アメリカへ

    1996年に入社すると、無線計測の部署に配属され、PDC, PHS, W-CDMAなど様々な方式の携帯電話用測定器の研究開発職に就く。

    全く分からないことだらけで苦労したが、少しずつ物事が出来るようになっていくのは、仕事の充実感も感じられ、とても楽しかった。

    2年目の終わりには、希望していたアメリカへ駐在員として派遣される。上司にも「海外へ行きたい!」という想いを何かある毎に伝え、出張で本社から誰か来る時には「ご飯に一緒に行かせてください!」と外国人と積極的に交流していたお陰かもしれない。いずれにせよ、入社してから2年しか経っていない若者に、海外駐在のチャンスをくれるのは、外資系ならではのエピソードだ。

    そうして、11ヶ月という期間で渡米することになった。元々、新しいプロジェクトが始まるのに伴い、現地で必要な情報を集めて日本に伝える、橋渡しのようなミッションを担っており、ソフトウェア開発と平行して、そのような仕事も行った。途中3回ほど駐在期間の延長があり、最終的には約3年半近くもアメリカで働くこととなる。

    日本の職場と違って面白かったのは、制約が日本よりずっと少ない所だ。ある社員が、時間が押しているからミーティングをやりたくない、と言ったら上司が声を掛けたミーティングが中止になることもあれば、朝6時に出社して、午後3時にはさっさと帰ってしまう人、週3回出勤し、残りは家から仕事をする人など、日本でやったら絶対怒られるようなことを平気でやる人が普通に存在し、それが普通に認められるのが面白い。

    もちろん彼らと仕事を行うのは大変だと感じる時もあった。英語が下手だったこともあり、まず誰も話を聞いてくれない。たどたどしい喋り方だから頭が悪く、自信もないような人に映っていたのだろう。外国人に慣れていない人が多く、変な英語のアクセントに驚く人もたくさんいて、やりにくかった。幸いにもソフトウェアエンジニアは良いプログラムを書けば評価してくれる。私が書いたプログラムを他の社員が感心してくれ、お陰でそこから仕事がスムーズに行くようになっていった。

    ※入社3年目に測定器部門がヒューレット•パッカードよりスピンオフし、アジレントテクノロジーという社名に変更。

    不景気から、会社にしがみつかない生き方 を志す

    2001年に日本へ帰国すると、渡米前は4人くらいの部署が、20人くらいまで増えていた。しかし、ITバブルが弾けて景気が一気に下り坂になると、その影響を測定器の部門はモロに受けることとなる。レイオフが始まり、徐々に同僚が会社を去らざるを得なくなって行く。最初うちは、ある程度仕方がないと思っていたが、レイオフが3回目、4回目になるにつれて、「なんであの人が?」と驚くような人まで会社を去るケースが増えてくる。さらに、自分が本当に尊敬している優秀な人が去った時から、「どんなに優秀であっても会社にいつまでも居られるとは限らない」と確信するようになった。

    仕事自体も、確実にお金が稼げる部分を重視するようになり、だんだん保守的な戦略になっていく。まして、日本支社は子会社なこともあり、仕事の面白みがなくなってくる。

    ここまで来ると、モチベーションが下がるというよりは、ひとつの会社でずっとやって行こう、という考えは良くないのだな、と思うようになっていった。レイオフが始まれば、優秀な人が会社に残れるわけではなく、運にも大きく左右されることが多い。

    一番大事なことは、会社に残ろうと必死に頑張ることより、会社をクビになった時にも、同じようなポジション、それかもっと良いポジションに就けるような状態を作っておくこと。

    学びを得て、私は転職を決意した。

    いよいよ、自分がレイオフになる

    レイオフの嵐が吹き荒れる中、アメリカのアジレント本社で、たまたま募集していたポジションに応募し、採用され、2004年に再び渡米することになった。確かに、不景気とはいえ本社の方が仕事の自由度は幾分かマシだったが、3年程経つと、本社でも相変わらずレイオフが半年に1回ぐらいのペースで行われるような状態だった。そんな中、アメリカ国内ではリーマンショックが起こり、100年に一度、1000年に一度の不況と報道され、失業率が10%を超えるような状態になっていった。

    グリーンカードを無事に取得し、景気が少し落ち着いたら転職しようか、と考えていた矢先、ついに自分がレイオフにあう。

    その時は、1ヶ月後にレイオフがあると知らされ、初めて「まずいな」とイヤな予感がよぎった。これまでレイオフになった人から話を聞いていたが、本当にマネージャーからレイオフを言い渡され、その通りになってみると「あぁ、そうか」と案外あっさりと受け入れられた。そうは言っても、見ていた立場と実際に自分がそういう立場になるのとでは、全く心持ちが違い、どこか不安も混じっていたのも確かだ。

    まずは収入を確保しなくては、と思い仕事を手当たり次第に探して応募する。しかし状況は悲惨で、日米問わず最初の1週間でレジュメを100通くらい送ったにも関わらず、返事が帰って来たのは3通くらいだった。 ただ、3通返ってきただけでも幸運だったのかもしれない。企業への応募や電話面接など短期的な目標はあったので良かったが、もし何もやることのない状態だったら、とても辛かっただろう。 2ヶ月後、返事がきた3社のうちシリコンバレーにある中小企業2社から無事内定をもらうことができた。

    シリコンバレーで働くことに期待を抱くも、全ての会社が優秀で素晴らしいわけではなく、やはりピンキリであると実感する。測定器関係の仕事に就くが、技術的な水準の問題でなかなか思うような仕事ができない。10ヶ月後、別の会社に転職すると、そちらでも技術的な水準の問題に悩み、再び1年後に転職を決意する。どちらの会社でもレイオフを頻繁に実施する様子を間近で見て来たせいか、この頃になると、転職に対する抵抗感は全くなくなり、人間的に少しドライになってしまったようだ。

    一本の電話からアマゾン、そしてマイクロソフトへ

    ある転職サイトでレジュメを更新した翌日、一本の電話が掛かってきた。電話に出ると、ネット小売業大手のアマゾンからだった。これまで私が携わってきた業務、業界と全く異なるフィールドであり、予想もしていなかったが、「アマゾンの選考を受けてみませんか?」という誘いを受ける。大企業はある程度ソフトウェアの経験があれば、あまり過去の経験には拘らないのだろう。景気の影響を受けやすい B to B の製造業にいた私としては、景気にあまり左右されずに安定している、B to Cの会社は魅力的に映った。また、個人的にもアマゾンで毎月10個から20個の買い物をするヘビーユーザーであり、何らかの縁を感じていた。

    アマゾンは昔から今まで、もの凄く上り調子の会社だ。どんどん利益を生み出し、皆が熱心に働いていて、周りの雰囲気はとても良い。また、総じて優秀な人が多く、アマゾンは無茶振りが多い会社として有名だが、皆上司の言うことをしっかり理解し、全てこなしていた。ソフトウェアエンジニアリングとプロジェクトマネジメントの両方に携わっていたが、この時の経験は、私に仕事の楽しさを思い出させてくれた。

    2013年の2月には、マイクロソフトのウェブ検索を担うビングに転職した。アマゾンは素晴らしい会社であることは間違いなかったし、多くのことを学ばせてくれたが、唯一自分のやっていたプロジェクト(資金融資のためのウェブアプリ製作)が、あまり好きになれなかったのが難点だった。自分がやっているモノが自分の好きだと思えるモノと、思えないモノでは、賭ける情熱も違ってくる。その点、マイクロソフトのビングは、いつもグーグルの後塵を拝しているため、追い越そうと必死になっている部署であり、目標を定めて登っていく楽しさを味わえるのではないかと思った。かなり贅沢なアマゾンの環境を捨てるということで、今までで一番悩んだ転職だったことは間違いないが、今より仕事がもっと面白くなりそうな予感が、転職を決断させた。

    今後の夢、を考えた時、数々の苦難を経て、今から自分が10年後にどうしたいとか、考えてはいけないのではないか、と思っている。逆に、その場その場で一番面白そうなことをしっかりとやって、つまらなくなったら、いつでも違うことが出来るようにしたいというのが、私の考えだ。「今の自分の状況を10年前には予想もしなかったなあ」と言えるのは非常に幸運なことだと思う。転職ありきではないが、常に自分の好きな環境に自分を置けるように刃を研いでおくのは、生き延びるための必須条件である。一方、プライベートでは、自分の子供が20歳になった時に、自分が尊敬できるような人に育っていて欲しいと考えている。

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    壁を作るな

    最後のメッセージとして、『壁』を作るな、と伝えたい。昔の私と似て、自分で壁を作ってしまっている留学生によく出会う。アメリカで働くことは無理だ、と決めつけてしまう人、日本に帰って就職することが当たり前だと思っている人、まして日本で働きたい、と言葉を置き換えてしまっている人までいる。かく言う私もアメリカに駐在していた時に、日本の企業の傘の下で守られているからこそ、外国で働くことが出来ているのだ、と思いこんでいた。しかし、当地でたまたま知り合った高校の先輩に誘われて「記念受験」してみた、シリコンバレーにある企業の面接で、たまたまオファーを貰えたことは大きな衝撃だった。最終的には断ってしまったものの、外国で働くことも無理なわけではないことを気づかせてくれたその先輩には非常に感謝している。『壁』はあくまで自分が作り出した虚像に過ぎず、本当は存在しないものだ。出来そうにないものでも、失敗で失うものが小さいチャレンジならばやってみると良い。絶対に失敗するな、と思いながらやってみて、失敗だったら当たり前。上手く行ったらラッキーぐらいの気持ちで良いのではないか。

    世の中にはチャンスが到来したにも関わらず、自分には無理だ、と壁を作ってチャンスを潰してしまう人がいっぱいいる。私も40歳を前にして、全くプラットフォームや職種、プログラミング言語も違うポジションでアマゾンからオファーを貰った。受ける前に、無理だと諦めてしまっていたら、今のようにマイクロソフトで働くチャンスもなかったかもしれない。日本人は、勤勉で優秀だからこそ、やればできる。ただ、失敗してはいけない、という考えが「やれば」を不可能にしてしまっているような気がする。

    もう1つ伝えたいのは、無駄な苦労はしなくても良い、ということ。

    若い時に苦労をしておきなさい、という言葉があるが、良い苦労と悪い苦労があると思う。景気に左右されたせいで、仕事を失い、辛い経験を2年間くらいした。あの時の苦労が今の糧になっているかというと、私にはその経験がなくても今の自分はあったと思うし、むしろ時間を無駄にしてしまった、という考えのほうが強く、それ以後の決断をする際の指針としている。だから若い人には、正しい方向の苦労をすべきだ、と言いたい。厳しい環境に身を置き、成長できる苦労をすることは大事だ。何でもいいから失敗をたくさんしろ、ではなく、成功したら凄い、ということに挑戦してみるのがいいのではないだろうか。

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