• 齊藤満さん

    齋藤満さん

    マイクロソフト勤続15年。貧しい青年期を乗り越えた後、貿易に従事するため商社へ入社したが、配属されたのはシステム関係の部署。野心を失いかけるも、その後縁あってマイクロソフトで勤務することに。数々の逆境を乗り越え、世界に通用する日本発のソフトウェアを作るべく邁進する齊藤さんの人生。

    記事:杉浦広太 取材日:2013年8月

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    貧しい暮らし

    今の私を形成する価値観は、青年期に経験した父親のビジネスの失敗から大きな影響を受けている。日本で使われなくなったフォークリフトを海外に輸出するなど、日本のみにとどまらず精力的にビジネスを展開する父の元で育った私だが、高校を卒業するまでに父親のビジネスの失敗を2度も目の当たりにした。当時、債権回収業者が家に来て、彼らに自分の大事にしていたオルガンや原付バイクを持っていかれた時の辛い経験は今でも脳裏に焼き付いている。しかし、その原体験が『将来は、商売上手になって絶対に金持ちになる』という強い決意を芽生えさせてくれたのは確かだ。

     

    6年間に及んだ大学生活

    商売やお金の流れについて学ぶため、経済学部や商学部といった学部に絞って大学受験をした結果、早稲田大学商学部に進学した。大学生活は、私が立ち上げたキャンプサークルの活動やビジネスと国際貿易の勉強にのめり込んでいた。読書や教授との会話のなかで知識を得ていくのが楽しくて仕方がなく、それを勉強だとは一切思っていなかったし、好きが高じて、他大学まで授業を聴講しに行くことさえあった。

    勉強をしていく上で人口や貿易額などの様々なデータが必要になり、当時インターネットの走りのようなものであった大学間のデータベースを活用するために、半ば必要に迫られてコンピューターの世界に足を踏み入れることになった。ところが次第にコンピューターの勉強に没頭し、加えてキャンプサークルの運営と国際貿易の勉強にも熱が入っていたため気付いたときには単位が4単位足りず、2年間留年してしまった。つまり大学には6年間いたことになる。(笑)

    留年中は時間に余裕があったから、プロバイダーでマッキントッシュのサポートをするバイトを始めた。そんなある日、人材会社から声がかかり、もっと時給のいい職場へ移籍しないかと誘われ、その話に乗ることにした。それが私とマイクロソフトの初めての繋がりだったのだ。半年間マイクロソフトの契約社員として働き、6年間の大学生活も終わりを迎えようとしていた時、マイクロソフトに来ないかと誘ってもらえた。でも、私にとってコンピューターはただの趣味の延長だ。商売や貿易に従事したいという気持ちも根強く持っていたので、そのお誘いは断わることにして、卒業後は商社で勤務しようと考えていた。

     

    くすぶっていた会社員時代

    大学生活6年目、大変厳しい就職活動が待っていた。私の場合、大学4年目、5年目の時には、今でいうエントリーシートにあたる葉書を出せば、先方の会社から大抵返事が返ってきた。しかし、いざ大学卒業を目前に控えた6年目の就職活動では、会社からほとんど返事が来ない。2年間の留年という事実に、日本社会はとても冷たかった。ようやく返事をもらった会社へ面接のため足を運び、履歴書を渡して話し始めたところ、留年していることが分かったとたん、採用は不可能だと直接言われたこともある。

    ようやく小規模な商社へ入社することが決まり、商売に携わりたく海外貿易部への配属を希望した。しかし自分の期待とは裏腹に、会社の中にコンピューターをできる人が少ないという理由で情報システム部へ配属されることになる。貿易がしたくて商社に行ったのに、パソコンに詳しかったという理由で情報システム関係の部署に行くなんて。

    しかも、3か月程度で一通りの業務に精通し、ほとんどの仕事が、ルーティンワークになり、何も学んでいない気がした。インターネットやコンピューターというものにまだ馴染みがなかった時代なので仕方がないが、『マウス』や『クリック』の意味を聞いてくる人さえたくさんおり、その度に、なぜ、俺はこんなところにいるんだと、イライラしていた。

    そんな具合に毎日何かしらに腹を立て、お酒の席でも愚痴をこぼすことが多くなった私を見た大学時代の友人たちは、「学生時代、あんなに面白かった満がここで終わるのか。」と思っていたらしい。その時の私は、「俺は必ずいつかこの会社から出ていく。」と自分自身を鼓舞する一方で、「この会社で定年まで過ごすのが、限界なのだろうか。」と揺れ動く思いの狭間にいた。

    不本意な業務を目の前にして、「どうしてこんなことをしているのだろうか。」と悩む自分。

    「私は将来どうなっていて、いくらくらい稼いでいるのでしょうか。」と上司に相談すれば、「人事部に行けば、30年後までの給料が見ることができるよ。」と、この先どんなに努力し、どんな成果を上げても、もう30年後が決まっている自分。

    さらに「夢や、やりたいことは心の奥の小さな箱にしまっておけ。そしていつかそれを実行できる力がついたら、その箱を開けばいいんだ。」と言われ、「それでは○○さんの夢はなんだったのですか。」と聞くと、「なんだったかなぁ。忘れたなぁ。」と寂しげに語る上司。

    あの時の自分は大きな野心を忘れかけ、かつての理想と目の前の現実の格差を感じてジレンマに陥りくすぶっていたのを思い出す。

    そんな中でも、とにかく色んな場所に顔を出すようにしていた。勉強や教育には理解のある会社で、セミナーの交通費や参加費を援助してくれ、社員思いだった。展示会で、パナソニックやソニーといった最先端の技術で時代を牽引していた企業の製品を見て、「俺も将来こんなものを作ってやるぞ。」と自分を奮い立たせていた。

    悶々としながらも1年半仕事を続けていたが、ある日、マイクロソフトで働いていた当時の上司から、飲み会に誘われた。彼は私がずっと貿易関係の仕事に興味を持っていることを知っていて、「ずっとやりたいと言っていた貿易は出来ているのか。」と聞いてきた。私は当時の自分の状況を全て説明し、やりきれない思いや情報システム関係の業務をしていることを伝えた。するとその上司は、「それならうちでいいんじゃないのか?貿易の仕事は無いが、世界の人達と仕事はできるぞ。」と言ってくださった。

    それがきっかけで、マイクロソフトへ転職することになった。

     

    重圧に負けそうになったマイクロソフト時代

    多忙、プレッシャー、職場環境の変化など、マイクロソフトに入社した途端待ち受けていたのは困難の連続だった。当初、給与の高さに驚いたのだが、マイクロソフトの人事から言われた「あなたのする仕事はこの給与に見合うくらいの仕事なのです。」という言葉の意味を、働き始めてから痛感することになる。

    マイクロソフトでは2年間仕事のパフォーマンスが悪い状態が続くと降格、さらには解雇という評価制度がある。新人で、日本の会社の2年目でのほほんと仕事をしていた今までとのギャップで、些細な出来事、失敗さえ全てマイナス査定になるのではと不安に感じ、それが雪だるまのようにどんどん自分にのしかかった。半年間の間は、鬱病のような状態に陥り会社に行くのが憂鬱で仕方がなく、毎朝鏡を見るたび「まだ大丈夫。」と自分自身に言い聞かせる日々だった。正直に言うとこの当時の記憶はあまり無い。というのも新しい環境に順応しようとただただ必死だったのだろう。

    そんな日々が突然終焉を向かえる。それまで私が所属していたチームで扱っていた商品(Windows9x)が、今後扱われなくなるということでチームが解散してしまったのだ。突然の事態に驚いた私は、「僕はどうなるのですか?」と上司にかけあうと、「3か月以内に自分でポジションを探せ。とにかく何をやりたいか考えてみることだ。ポジションが見つからない場合は、辞めてもらうことになる。」と言われた。

    「自分ができること、やりたいことはなんだろうか。」

    悩みに悩んで苦しんだ。

    特にやりたいことも見つからないまま時間が無駄に過ぎていった。1か月ぐらいたってからだったか、幸い、違う部署(Windows NT 系)に、デバイス関連(周辺機器)の仕事で良かったら、ポジションがあるとその部署の部長さんが言ってくださった。

    今まで、Windows、Internet Explorer のローカライゼーションをしてきた私には、その“デバイス”(周辺機器) というのが一体何なのか、ぴんとこなかった。他に選択肢も無かったのだが、「少し考えさせてください。」と返答させていただいた。

    何を考えたら良いのか、正直よく分からなかった。ただ、仕事なんだからやれば良いじゃないかという自分と、興味が無い物は、続かないという自分が葛藤していた。

    そんなことを考えている時に、ふと疑問に思うことがあった。

    「こんなに小さなMOやCDがなぜデータを保存できるのだろうか。」「なぜキーボードを打つと、画面に文字が出てくるのだろうか。」

    そんなことを考えていると、デバイスがどうして動くのか不思議でしょうがなく思えてきた。「うん、面白そうだ。やってみよう。」

    そうして、自分はデバイスの部署の一員となった。

    この選択が実は大正解だった。当時の日本は、デジカメ、プリンター、CD、DVDなどのデバイス天国として、先進的な技術を持っていた。アメリカで動く機能を作れば、世界で動くという一般的な感覚が、全く当てはまらない分野だった。

    たとえば、DVD を焼く機能を Windows に追加するにしても、日本の企業の方々に話を聞かないと、どう仕様を書けば良いかが分からない。また、携帯電話(回線)をデータ通信として使う仕様が世界で一番進んでいて綿密に規格されていた為、モデム通信の機能の仕様を書くのに、日本の規格、環境を理解しないと前に進まないというようなことが、多々あった。私の業務は、そういった際に、日本の先端技術を理解し、米国本社の人達に内容をかみ砕いてお伝えするという窓口業務だった。この業務の中でお会いした日本の最先端で働く方々は、何も分かっていない私に、もったいないぐらいに丁寧に隅から隅まで教えてくださった。それを米国本社の人達に伝えると、それぞれの技術の精緻さ、綿密さに驚かれ、それらを伝えただけの私に感謝してくれた。

    そうして、出来た社内人脈を使って、逆に日本のニーズだけに応えた機能やデータをWindows に組み込むことも出来た。たとえば、日本のデバイスのデータをWindows に標準で組み込むという作業を世界に先駆けて行った。その結果、Windows XP が出た際、日本で発売されていた 95% のデバイスは、接続するだけで動作した。こういった活動は、日本のお客様に非常に感謝していただいて、お褒めの言葉を、何度となくいただくことが出来た。

    こういった業務の中で、人から『感謝される』という経験はとても刺激的で、私が思うに、『やりたいこと』というのは人から喜んでもらった時に見えてくるものだ、とその時初めて実感した。

     

    失敗しながらも見えてきた大きなビジョン

    日本とアメリカをつなぐ窓口業務の中で成果を出し、会社に貢献していた私だが、徐々に大きいプロジェクトを任されるようになると、次第に慢心が芽生え始め、常に、全てに全力で力を注いでいたのと違って、このぐらいで良いかな、これは、重要度が低いしなと力を抜いてしまうことも何度かあった。その結果、ユーザーに後から不評をいただいたり、お客様から、クレイムを頂くなど、大きな失敗を幾度かしてしまった。

    慢心の理由は、今から思うと、賞賛を受け続けていくうちに、愚かにも日本がすごいのではなく、自分自身がすごいのだと勘違いし舞い上がってしまったことだと思う。この失敗の中から、たくさんの人々に支えられている自分を再認識した。また、今の失敗にも全て意味があるのだと思うようになった。失敗してもやっていることに自信を持ち、やり続ければ必ず成功すると考えることが重要だと、今では思える。

    その後、デバイス関連の知識、経験を買われ、米国本社でのプロジェクトに加わることになり、アメリカに移住した。それまでは、日本のお客様の声を伝えるだけだったが、実際に、Windows の仕様を書く立場になった。Plug And Play, Device Manager, Device Stage, Devices And Printers, Device Charm 等、デバイス関連の機能のほとんどに携わり仕様書を何百枚とこの7年少しで書いてきた。一つの仕様書を書くのに、何十人という人達と話をして、詳細を決めていくのだが、その人達は、たくさんの国から様々な人種が集まった人達だ。各国のニーズ、ビジネス、カルチャーなどを背景に、時にそれぞれがエゴさえもぶつけ合う。そんな議論の中で、重要なのは、英語の流暢さや、表面上の表現ではなく、自分の描くシナリオ、端から端までのストーリーをひるむことなくしっかりと伝えることだと思う

    こちらで仕事をしていて気づいたのは、アメリカの人達は、中高生のうちからやりたいことを見つけ、それに応じて大学の専攻を選ぶ人が多いので、それぞれ何に興味があり、何がやりたいのかが非常に明確だ。自分の趣味とさえ言える物を専攻にして、仕事にするから、楽しみながら仕事をする。仕事だから、嫌でもやらなければ仕方が無いという立場で仕事をすることが多い日本の人達が、どれだけ時間を費やしても、かなうわけはない。やりたいことがある者同士、やるべきだと信じている物がはっきりしている者同士が議論をするので、時には、会議でそれぞれがやりたいことをぶつけ合い、喧嘩腰になることさえもある。そんな状況で、みんなが同じ方向を向いて1つのことを成し遂げた時の喜びはひとしおだ。

    日本はものづくりに大きな敬意を払う文化から、画期的な技術も生まれることが多いが、それを世界へ広めることが苦手なのではないかという局面に接することが多々ある。また、まだ日本のソフトウェアは世界に認められていないように思う。今の私の夢は、今やっているアメリカでの仕事の経験を生かして、いつか、日本発で、世界に通用するソフトウェアを作り、世界に日本の素晴らしい技術を伝えるということだ。

    若い世代の人たちは、まず、やりたいことを真剣に考えてほしい。よく言われることだが、十年後、自分がどんな仕事をして、どんな役割を担っているかを具体的に考えてほしい。やりたいことが分かっている人と分かっていない人、十年後が見えている人と、見えていない人では、実際の十年後になった時、歩いている道が全然違う。人生の楽しめ方が違うというのが優秀と言われている人達の中にいて強く感じてきたことだ。

    ただ、やりたいことを理解すること、自分の将来像を具体的にイメージすることは、簡単なことではない。実際、私自身も30歳ぐらいでやりたいことが見え始め、35歳でようやく自分の60歳程度までの青写真を描くことが出来た。やりたいことは必ず見つかるので焦らないでいい。でも、やりたいことは見つかるといっても、こたつの中で寝ているだけで突然自分に降ってくるものではない。とにかく何でもやってみること、いろんな人と話をすること、そして、毎日、毎週、自分は何をしたいんだろう、どんな時に自分は嬉しいんだろうと考え続けることが重要なんじゃないかなと思う。